元厚生事務次官殺害事件は、やはり頭のおかしい男の場当たり的な犯行のようだ。ワイドショーでは朝から晩まで、いろんなコメンテーターがこの事件の「意味」を解説しているが、それは無駄である。「犬の仇討ち」というシュールな動機も、本当かどうかはわからない。むしろ統合失調症のような疾患を疑ったほうがいいだろう。

秋葉原殺人事件のときも、私のところにコメントを求める取材や、本で対談してくれという話が来たが、すべて断った。精神異常者はどんな社会にも存在し、彼らは一定の確率で殺人をおかす。その対象が家族であればベタ記事にしかならないが、「秋葉原」や「厚生省」という意味がつくと、メディアが大きく取り上げる。この種の報道は憶測ばかりで、犯罪の連鎖を呼ぶ有害無益なものだ。

こうしたワイドショー的発想の典型が本書である(リンクは張ってない)。内容は、およそ論評にも値しない無内容な雑文の寄せ集めだ。本として最低限の品質管理も放棄し、犯人の名前さえ実名と匿名が混在している。編者の本が分厚いばかりで中身がないことはこれまでにも書いたが、本書は彼にとっても岩波書店にとっても記念碑的な駄作である。東浩紀平野啓一郎本田由紀雨宮処凛といった「読んではいけない」メンバーが見事にそろっている。

犯罪に過剰な意味づけを行なう傾向は、私の印象ではオウム事件のころから顕著になってきたと思う。カルトというのは集団的な精神病で、それが犯罪を引き起こすのもありふれた現象だ。それに無理やり「日本社会の病理」とか「安全神話の崩壊」などという意味を与え、破防法まで動員して大騒ぎした。

こういう過剰報道は読者からは理解しにくいが、供給側からはごく自然な現象だ。個々の記者や編集者にとっては、社内で陣取りするとき、意味づけが不可欠だからである。前にも書いたことだが、私がかつてニュース番組でビル・ゲイツへのインタビューを提案したとき、デスクが彼の名前を知らないので「全米一の金持ちゲイツさん」という企画で通した。マイクロソフトのCEOという業界ネタではニュースにならないが、「37歳の大富豪」という意味づけがあればオジサンにもわかるのだ。

メディアの社内競争は激しい。特に記者のランクは、どれだけ大きいニュースを出したかで決まるので、編集会議でなるべく社会性のある意味をつける必要がある。単なる交通事故が、「激増する飲酒運転」という意味がつけば(実際には増えていなくても)トップニュースになる。暖かい日が続いたという程度の話も「地球温暖化」と結びつければニュースになる。

1990年代から、このような「物語」づくりが顕著になったのは、おそらく偶然ではない。かつては資本主義と社会主義という大きな物語があり、各メディアは自社の方針に沿って主張すればよかったが、社会主義が崩壊してから「革新勢力」の依拠した物語が失われてしまった。そこで彼らは「格差社会」とか「コンピュータによる人間疎外」とかいう小さな物語をつむいで、反体制のポーズを守ろうとしているのである。

「意味づけ」の病 - 池田信夫 blog